夏の忘れ物  第九話 −失いたくない物−



「いらっしゃい。タクミくん。」
「今年も誘っていただいてありがとうございます。」
うっとりするような微笑みに思わず赤面してしまう。

佐智さん、以前にもまして美貌に磨きがかかってる。
「来てくれてうれしいよ。」
この屋敷に来るのも4度目。
何度きてもこの屋敷の広さには驚いてしまう。

サロンコンサートは4日後。
明後日にはギイと三洲と章三も到着する。

気分転換にでもなればと、三洲をサロンコンサートへと誘った。
佐智さんに事情を話すと快くOKしてくれて、折角だからと章三までお邪魔することになってしまった。
サロンコンサートが終わればアメリカにすぐに帰らなければいけないギイへ
佐智さんからのささやかな気遣いだった。
予定のままだと、折角日本に戻っても章三達には会えなかったから・・・・





荷物を部屋へとおいて、佐智さんと一緒にテラスへと向かう。
真っ青な空と木々の緑が目にまぶしい。
とりとめのない会話とコーヒーを楽しんだ後、佐智さんは僕に譜面を手渡した。
「・・・佐智さん・・・これ。」
手渡された譜面に目を落として少し驚く。
「うん。今年はこれをやろうと思ってね。」
にこりと笑う佐智さん。
その譜面には見覚えがあった。

・・・・・パッヘルベルのカノン・・・・
必死で音を追いかけたあの夏。ただ夢中で・・・・

「以前のに少しだけ手を加えたんだ。この間の音大での発表会の時のタクミ君のバイオリンを聞いたらもう一度これを弾きたくなった。」
「え?でも発表会は・・・」
丁度その日、佐智さんはイギリスで公演があったはず・・・
来れるわけなんて無いのに。

不思議そうな顔をしている僕をみて佐智さんは小さく笑った。
「義一くんにお願いして、ビデオ取ってもらったんだよ。」

「えっ!」

なんだってっ!!??ギイってば一言もそんなこと・・・・
「去年一緒に演奏した時よりグンと音ののびがよくなった。もちろん技術も安定してきたしね。タクミ君の素直さがとてもよく感じられた。」
佐智さんの言葉にドギマギしてしまう。

そんなにほめられると・・・どうも自分の事じゃないみたいだ。

「だからね、もう一度タクミ君とこれを弾きたかった。この曲は僕達が初めて一緒に弾いた曲だし、僕にとって大切な曲なんだ。」
「僕にとっても・・・カノンは・・・大事な曲です。」

立ち止まっていた僕の背中を押してくれたのは佐智さんだった。
もちろん、ギイと出会えたからこそなんだけど。
バイオリンへの思いを改めて自覚したのはこの曲のおかげだったんだ。

「頑張ろうね。タクミ君。」

佐智さんの笑顔は、とてもまぶしかった。





パッヘルベルのカノン。


もちろん井上佐智の演奏は以前にもまして深みが出ている。
生の演奏を聴いたのは4年も前の出来事だ。

俺も、崎も赤池も、ただ無言でバイオリンを奏でる葉山を見つめていた。
なめらかに指先が動いて、そこから紡ぎ出される音は、バイオリンからだけでなく
身体全体からあふれているようだった。
絡み合い、交差する二つの旋律が心の中に響く。




長い余韻の音を残して曲が終わる。
すぐに拍手が鳴り響く。
葉山は充実した笑顔で井上佐智と握手を交わす。
正面へ向き直りぺこりと頭を下げるとステージを降りる。
まっすぐにこちらへやってくる。

「お疲れ、タクミ。」
「もう・・・心臓バクバクいってるよ。音外さなくてよかったぁ。」
「こっちもいつ音を外すかヒヤヒヤしてたさ。」
「それはどうもご心配おかけしまして。」
「ほら、タクミ。」
崎が葉山へ飲み物を手渡す。

「ありがとう・・・・・・あ・・・・。」

葉山が渡されたグラスに口を付けようとしたとき。
丁度井上佐智の演奏が始まった。
「サティーだ・・・ねぇ、ギイ。聖矢さん来てるの?」
きょろきょろと辺りを見回して葉山は崎にたずねる。
「ああ、カノンの少し前にね。あそこにいるよ。」
「間に合ったんだ。よかった。佐智さんすごく聴いてもらいたかったみたいだったから。去年は来れなかったし・・・あっ・・・。」
慌てて口をつぐむ葉山。
そんな葉山を見て崎はくすりと笑う。

「大丈夫だよ、章三と三洲なら。」
なるほど、井上佐智の公には出来ない間柄の人物が来ているわけだ。
「そうだね。」
そう笑うと葉山はステージでバイオリンを奏でる井上佐智に目を向けた。
優しい微笑みをたたえたまま、じっとなめらかに動く指先を見つめている。
まるで、一音も聞き逃すまいとしているかのように。
俺たちもそのまま、しばらく井上佐智の演奏に聴き入っていた。

鳴り響く拍手の中、3曲のアンコール曲を弾き終えた井上佐智は
深々と頭を下げて舞台を降りてその場から消えてしまった。
「サティーの後に2曲も弾いたか。佐智もあれで大人になったなぁ。」
「・・・ギイ・・・・。」
しみじみと呟く崎に葉山はあきれた声を出す。

拍手が鳴りやみ、あたりは人の話し声が聞こえ始める。
「タクミくーん。」
人の壁の隙間から葉山に向かって声がかかる。
たしか井上佐智の母親・・・
「ごめん、ちょっと行って来るね。」
葉山はそう言って走っていった。

「僕も今のうちに手洗い行って来るよ。」
赤池もそう一言言い残して場を離れてしまったので崎と二人きりになってしまった。

「・・・・葉山は・・・強くなったな。」
離れた場所でなにやら話をしている葉山に目を向けて崎に話しかける。
「ん?何のことだ?」
「葉山に説教された。」
「タクミが三洲に?真行寺のことか?」

「そ、記憶は戻ると俺が信じなくてどうするってな。葉山から聞いてるんだろう?」
「いや。聞いてないな。」
「へぇ。崎は・・・あのまま葉山の記憶が戻らなかったらどうしてた?」

少し驚いた風に崎は俺を見た。

「経験者の意見が聞きたいわけね。タクミと来たら、俺のこと怖がって島岡にべったりだったんだ。」

肩をすくめる崎。

「嫌悪症時代に逆戻りか。」

「まぁ、嫌悪症も忘れてたみたいだけどな。もし記憶が戻らなかったらって言う不安は
もちろんあったし、距離を置こうとするタクミに傷つきもしたけど、俺は記憶はきっともどると信じた。
それがだめでも無くしてしまった時間を取り戻そうって思ったよ。
最初からだめだと決めつけたくはなかった。どうせならやるだけやってその結果で納得したかったんだ。」

崎の見つめる先には葉山。

「やるだけやって・・・か。」

葉山と同じようなこと言うんだな。

「見つめるだけで・・・思うだけで幸せだった。
決して手に入らないと諦めていた物を手に入れてしまうと・・・もう戻れない。」

「・・・崎?」

「知らなければ諦めることも出来る。でも知ってしまえば焦がれるだけの時には戻れないって事さ。俺は何年もタクミを想い続けてた・・・
絶望的な恋だと諦めてたのにタクミをこの腕に抱くことが出来た。俺はもう、タクミを見つめるだけの生活には耐えられない。」

優しい・・・けれど強いまなざしで葉山を見つめる崎。
・・・何年も?崎と葉山が出会ったのは祠堂に入る前って事か?

「失いたくないなら、なりふり構ってられないだろう?・・・がんばれよ。」

「・・・そうだな・・・」

手に入れてしまったら・・・もう戻れない・・・
自分を抱きしめる腕のあのぬくもりを知ってしまったから・・・失いたくない大事な物。

もう一度この手に出来るなら・・・・・・

崎に背中を押されると言うのも、いまいち釈然としないが・・・
素直にそう言葉が出てきた。
別に崎のことは嫌いではない。ただ気にくわないだけで・・・・

「だいいち三洲らしくない。人目も気にせず真行寺を所有物呼ばわりしたあの三洲とは
とても思えないな。」
にやりと笑う崎。

前言撤回。

やっぱりこいつは『嫌い』だ。

「おや。さすがは秀才と名高い崎家のご子息殿。つまらない事をよく覚えておられる。」
嫌みたっぷりにいってやる。
「そりゃぁもちろん。」
「お節介ながらも余計なことはさっさと忘れた方が良いと思うけどねぇ。」

笑顔とは反対に冷たく言い放つ。

「あんな貴重な出来事を忘れるほどもったいないことはないさ。」
「たいした事じゃないから、さっさと忘れろ。」
「やだよ、もったいない。」

お互いにこりと微笑む光景は端から見るとほほえましい物かもしれないが
実際に漂う空気は逆に冷ややかな物だった。

「・・・なに見つめ合ってるんだ?おまえら。」

戻ってきた赤池はあきれ顔でつぶやく。

「章三も仲間に入りたいか?」
「赤池も仲間に入りたいか?」

俺たちはにっこりと微笑んでそう答えた。

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アラタさん、ギイにも諭されて意を決したようです。
アラタさんの辛さがよくわかるのはギイしかいないのでしょう・・・・

連載が終わったらこの回の外伝を書きたいです。